・円山近辺の山について | ・円山八十八カ所 |
・札幌のまちづくりと円山 | ・開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その1) |
・開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その2) | ・円山村の成立 |
・円山と桜 | ・円山養樹園 |
・岩村通俊像 |
円山近辺の山について現在私たちは、ごく当然のように『円山』(標高226m)と呼んでいますが、この山の本来の名前は「モイワ」だったことはほとんど知られていません。モイワとは、アイヌ語で「小さな山」という意味を持っています。町から望むその山容は、まさにモイワそのものでしょう。 (参考:「札幌のアイヌ地名を尋ねて」山田秀三著、楡書房、1965) |
札幌のまちづくりと円山北海道の首府となる町を作るべく、開拓使の主席判官である島義勇(よしたけ)が乗り込んできたのは、明治2年の冬でした。当時既に、現在の発寒や元町あたりにはいくらかの開拓者が入植していましたが、島はその人達の意見を聞き、道案内をしてもらいながら本府建設の構想を練ったといわれています。 (参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970) |
開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その1)市役所のロビーには、手をかざして遠くを望む島の銅像がおかれています。島は札幌の基礎を造った人として、今でもこのように大切に扱われているのですが、実際にはわずか百日あまりしかいなかったのです。
(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970) |
開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その2)島は開拓使をやめた後、侍従や初代秋田県令(知事)を努めましたが、明治7年に起きた佐賀の乱では、江藤心平と共に明治政府に背いたため、捉えられて二人とも斬罪梟首されてしまいます。 |
岩村通俊像公園の一番北の端は、現在北一条宮の沢通という幹線道路になっています。この歩道を歩きながら、車両の喧噪に包まれて公園内を見ていくと、大きな銅像が木立の中で道路にお尻を向けているのに気付きます。これが岩村通俊の像なのです。 (参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970) (参考:「北海道の歴史」榎本守恵、北海道新聞社、1984) |