円山公園の歴史

円山近辺の山について 円山八十八カ所
札幌のまちづくりと円山 開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その1)
開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その2) 円山村の成立
円山と桜 円山養樹園
岩村通俊像

 

円山近辺の山について

現在私たちは、ごく当然のように『円山』(標高226m)と呼んでいますが、この山の本来の名前は「モイワ」だったことはほとんど知られていません。モイワとは、アイヌ語で「小さな山」という意味を持っています。町から望むその山容は、まさにモイワそのものでしょう。
では私たちが「藻岩山」(標高531m)と名付けて親しんでいる山はというと、これは本来「インカルシペ」、アイヌ語では「いつも遠くを見渡す所」という意味を持っていました。(この地名は各地にあり、最も有名なものは遠軽町にあります。現在は瞰望岩と呼ばれる岩山は、まさにインカルシペそのものですが、そのアイヌ名をそのまま町の名前に生かしているのです。)
明治3年に、山形県庄内地方から移住した農民30戸90名をこの地に入植させ、庚午(こうご)三の村と呼んでいましたが、翌4年、時の判官岩村通俊が京にならって円山村と名付け、それと同時に山の名前も円山と呼ばれるようになりました。
その時にいらなくなった「モイワ」という名前が隣のインカルシペに引っ越してしまい、そちらを藻岩山と呼ぶようになってしまったようです。さすがにこれはおかしいと、明治時代に音読みを取って「笑柯山」とか、意味を取って「臨眺山」とか名付けられたこともありましたが、結局藻岩山が定着してしまったのです。
円山にはもう一つ小さな山があります。神宮の第2鳥居から社殿を望むと、その真正面に円山と同じように形の整った山があります。これは普通神社山(標高237m)と呼ばれ、いわば神社のご神体のような位置づけがされているようですが、この山はアイヌの時代には「エプイ(頭又は蕾)」と呼ばれていたようです。

  • M6札幌郡西部図
  • 神社山

 (参考:「札幌のアイヌ地名を尋ねて」山田秀三著、楡書房、1965)

topへ↑

円山八十八カ所
円山は町のどこからでも見ることのできる山ですが、きちんと登山道が整備されたのは大正3年のことでした。円山村の開祖と呼ばれる上田萬平が、自分で費用を出し、自らも鍬をふるって頂上までの登山道を開鑿(かいさく)しました。
また弟の善七は、この登山道に沿って、弘法大師が開いた四国八十八カ所のように、八十八観音を創建することにしたのです。札幌近郊には四国から入植した人達が多く、この人達にも呼びかけて寄進を募り、大正3年5月20日に開眼安置の法要が行われました。翌大正4年には、市内の成田山新栄寺により、弘法大師の遺徳を偲ぶお堂(大師堂)を建て、弘法大師の像が安置されています。
今では次々と献納された観音様は二百体にものぼるといわれ、これらを参拝しながら登ることができるようになりました。一年中毎日のように登る人が引きも切らず、単なる健康作りだけでなく、植物や昆虫、リスや野鳥などとのふれあいを楽しめる魅力がいっぱいの山となっています。大師堂観音様(参考:「円山百年史」円山百年史編纂委員会、1977)

topへ↑

 

札幌のまちづくりと円山

北海道の首府となる町を作るべく、開拓使の主席判官である島義勇(よしたけ)が乗り込んできたのは、明治2年の冬でした。当時既に、現在の発寒や元町あたりにはいくらかの開拓者が入植していましたが、島はその人達の意見を聞き、道案内をしてもらいながら本府建設の構想を練ったといわれています。
その場所は明確ではありませんが、今の北海道神宮近くの「コタンベツの丘」であったといわれ、そこから真東を望んで創成川(当時は大友堀)との交点が町づくりの原点になったのです。その場所には創成橋が作られ、その軸線が南一条通になりました。
円山公園には、島の功績を称えた紀功碑が建っていますが、その位置から東を望むと、ちょうど南一条通が見渡せ、その先にある創成橋まで続いていることから、それを意識してこの場所に設置したのではないかと考えています。
また島は、神祇官より開拓三神を授けられてやってきましたが、既にこの地で開拓に当たっていた早山(そうやま)清太郎(のち篠路に移って篠路の開祖と呼ばれています)などに相談し、現在地に神社を建てることを決めています。島の後を継いだ岩村判官は、町中に仮社殿を建てて安置していた三神を、明治4年に現在地に社殿を造営し、遷座して札幌神社と称したのです。(昭和39年に北海道神宮と改称)
このように、円山の地は当時の町の中心部からは離れていましたが、札幌のまちづくりとは切っても切れない関係があったことが分かります。

M06札幌地図

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)

topへ↑

 

開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その1)

市役所のロビーには、手をかざして遠くを望む島の銅像がおかれています。島は札幌の基礎を造った人として、今でもこのように大切に扱われているのですが、実際にはわずか百日あまりしかいなかったのです。
明治2年に開拓使が設置され、薩長土肥の一角、肥前の殿様であった鍋島直正が初代の長官になりました。このため、旧佐賀藩士であった島義勇が主席判官として本府建設に乗り込んでくることになったのです。
島は既に雪が降り積もる中、12月12日に札幌に入り、円山の小さな丘から見通した軸線を南一条通とし、札幌の骨格を形作ったのです。島の構想は「石狩国本府指図」として現在に伝えられていますが、現在のような碁盤目の町とは少し異なり、京の街並みを意識したものではないかと考えられています。
厳寒の中、金に糸目を付けないで建設工事を進めた結果、持ってきた資金を使い果たしてしまったため、鍋島長官が病気で辞任したため後を継いだ東久世長官は、島のことを快く思わず、直ちに罷免してしまったのです。
島は3月27日に札幌を離れたため、わずか三ヶ月あまりしか札幌にはいなかったことになりますが、このような壮大なまちづくりの基礎を造った島のことを、札幌の人達はずっと忘れなかったのです。

 

島判官像2石狩

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)

topへ↑

 

開拓主席判官 島義勇(よしたけ) (その2)

島は開拓使をやめた後、侍従や初代秋田県令(知事)を努めましたが、明治7年に起きた佐賀の乱では、江藤心平と共に明治政府に背いたため、捉えられて二人とも斬罪梟首されてしまいます。
島と江藤は、明治22年の憲法発布に際して行われた大赦を受け、大正5年には生前の勲功に対して従四位が贈られています。大正8年の特赦で名誉が完全に回復されましたが、札幌の人達はこれを待っていたかのように、島の功績を称えた紀功碑を円山の地に立てることができたものと考えられるのです。
開拓使の役人である判官には、北海道や札幌の名付け親でもある松浦武四郎を初め、岩村通俊や松本十郎など北海道開拓に活躍したたくさんの人がいましたが、札幌市民にとってはわずか百日しかいなかった島こそが「判官さま」だったようです。
北海道神宮の駐車場脇に数年前に設けられた休憩所は、道内で最も有名な菓子店である六花亭が造ったものですが、そこでは小さなそば粉の入ったお餅菓子が販売されています。そのお菓子こそが島に因んだ『判官さま』で、この休憩所と円山店だけで求めることのできる隠れた一品なのです。

卑判官さま

topへ↑

 

円山村の成立

島を先頭に乗り込んできた開拓使は、冬の間も様々な施設を作るために奮闘しましたが、食料や馬の餌などの補給が追いつかず、大変な苦労をしたようです。これは、既に先行して石狩などに乗り込んでいた役人が、管轄の違う兵部省に属しており、意地悪をして兵糧攻めにしたともいわれています。
このため北海道全域を開拓使の管轄にするよう政府に申し出たようですが、それと同時に本府をとりまく衛星集落の開拓を成功させ、そこから食料などを供給する体制づくりが必要だと島は判断したのです。
そこで東北から移住移民を募ると共に、食料の調達を行うために部下を派遣しています。羽前や羽後で米を調達し、各地からの移民を乗せて、小樽には明治3年春に到着しました。118戸394名の移民は、それぞれ適地を求めて入植していきましたが、この年が庚午(かのえうま)であったことから、それぞれ庚午一ノ村(のちの苗穂村)、 庚午二ノ村(のちの丘珠村) 、庚午三ノ村(のちの円山村)、既に集落が形成されていた札幌村の四カ所に分かれたのです。
庚午三ノ村には、すべて酒田県から30戸90名が入植しましたが、翌年には岩手からの入植者も加わり、45戸になっています。そして明治4年5月25日、岩村判官によって札幌神社の麓にある村ということで、京の円山に因んで円山村と命名されたのです。名所(参考:「円山百年史」円山百年史編纂委員会、1977)

topへ↑

 

円山と桜

札幌の町の基礎を造った島義勇は、わずか百日あまりで罷免されてしまい、札幌を離れてしまいます。その四年後には佐賀の乱によって明治政府に背いたことから、捕らえられて斬罪鳩首により命を落としてしまいます。
政府に背いた逆賊になったしまったため、札幌の人達は島のことを表立っては称えることができずにいましたが、当時島の道案内をした発寒の人福玉仙吉は島の死を悼み、翌明治8年に、近隣から集めた桜の苗木を150本も神社の参道に植えました。これがのちに見事に花開き、神宮近辺は花見の名所になったのです。
この桜を見た東京帝国大学の三好学博士が、その多様性を高く評価したと伝えられていますが、いわゆるエゾヤマザクラだけでなく、カスミザクラやミヤマザクラなど様々な種類が混じっていたのかもしれません。
明治32年の絵図を見ても、既に神宮周辺は桜に埋め尽くされ、至る所でどんちゃん騒ぎが行われている様子が窺えますが、現在に至るまでその状況が変わっていないことが分かります。
桜の開花宣言を決める木を標本木といいます。札幌における標本木は、これまで神宮の中に植えられていたソメイヨシノでしたが、2012年から札幌気象台構内(札幌市中央区北2条に18丁目2)に変更になりました。円山花見神宮の桜(参考:「円山百年史」円山百年史編纂委員会、1977)

topへ↑

 

円山養樹園

裏参道から動物園にかけて、札幌付近では珍しい杉木立があります。樹齢は百年以上も経っている大木もありますが、何でこんな所に杉木立があるのでしょう?
北海道開拓にあたって設けられた開拓使では、未開の地にどのような産業が適しているのか?特に大切な農林業の可能性を調べるために、官園という、今の試験場にあたる施設を函館の七飯や札幌に設けました。札幌官園は、現在の道庁の北から北大にかけての一帯にあり、樹木類の試作が始められていました。本府と呼ばれる今の道庁周辺では、様々な果樹が試験的に植えられていたようですが、さすがに町の発展に伴い、ここにいつまでも苗木の試験場を町中に設けている訳にもいかないことから、樹木の試験場は円山に移設することにしたのです。
こうして明治13年に、今の坂下グランド周辺に円山養樹園が設置されたのです。ここでは国内で既に植林に供されていたスギやヒノキ、クロマツ、アカマツ、カラマツ、ウルシなどに留まらず、海外から様々な種類の樹木の種子が集められ、どんどん苗木が作られて試作されていました。ニセアカシア、オーストリア松(ヨーロッパクロマツ)、海岸松?、ホネロッカシナ?、アメリカ白松(ストローブマツ?)、ユリノキ、ヒッコリーなど、実に様々な種類の樹木が記録に残されています。
これらの記録を丹念に調査し、植栽図としてまとめられた図面がありますが、これにより、現在も残る杉木立やヨーロッパクロマツ並木が明治23年に植えられていることが分かりました。この周辺には、現在も様々な珍しい樹木が残っているのは、こういう歴史があったからなのです。
円山養樹園は、明治34年に旭川の神楽に移転しました。(その跡地もまた、外国樹種見本林として、三浦綾子記念館を暖かく包み込んでいます)公園内の樹林は、開拓の歴史を物語る様々な樹木を観察するには好適な場所となっているのです。円山小学校百年歴史と自然(参考:「まるやま」円山小学校開校百周年記念誌、1975)     (参考:「円山の歴史と自然」田中潜著、1958)(「まるやま」円山小学校開校百周年記念誌、1975)        (「円山の歴史と自然」田中潜著、1958)

topへ↑

 

岩村通俊像

公園の一番北の端は、現在北一条宮の沢通という幹線道路になっています。この歩道を歩きながら、車両の喧噪に包まれて公園内を見ていくと、大きな銅像が木立の中で道路にお尻を向けているのに気付きます。これが岩村通俊の像なのです。
岩村通俊は、島義勇が罷免された後を受け、島の構想よりもさらに雄大な現在の街割りを設定しています。北に偕楽園を設置し、西の円山に札幌神社を創建するなど、将来を見越した札幌の基礎を作り上げた人といえるでしょう。
しかし岩村は土佐の出身であり、肥前出身の島同様、薩摩閥が幅を効かせていた開拓使の中ではかなり苦労をし、黒田と衝突して判官を罷免されてしまいます。しかし、明治19年に北海道庁が発足するや、初代北海道庁長官として再び開拓の最前線で指揮を執ることになりました。官業の民間への払い下げによる殖産興業、殖民区画の設定による開拓の推進、道路の開鑿や港湾の修築によるインフラ整備など、矢継ぎ早の政策の推進を図ったのです。しかし二年後黒田が首相になるや、再び長官の地位から閑職に追われるという悲運に見舞われるのです。
戦前の大通公園には、11丁目に岩村の軍服姿の銅像が建っていましたが、戦争中に黒田、永山像と共に供出されてしまいました。昭和42年の開道百年を契機に、開拓にゆかりの深い銅像を再建することとなり、これら三名と開拓使顧問であったホーレス・ケプロンを加えた四つの銅像が新たに造られたのです。
このうち永山武四郎像は、永山ゆかりの旭川常盤公園に、黒田像とケプロン像はそろって大通公園に設置され、陽の当たる場所に立っているのに対し、岩村像は自らが命名したゆかりの地である円山に設置されたものの、訪れる人もいない木立の奥にひっそりと立っているのは、まさに岩村の運命を示しているかのように思えるのです。

岩村通俊像岩村像の碑文

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)  (参考:「北海道の歴史」榎本守恵、北海道新聞社、1984)

topへ↑